治療家になるまで

私の場合は、父親が治療家でした。幼少の頃は、自宅兼治療所だったので、父親が患者さんに感謝をされている姿をいつも見てきていたように思います。しかしながら、大人になったら自分も…という気持ちはまったく持っておりませんでした。

高校3年生で進路を決める際も、治療家になるという選択肢はなく、一般の大学の文系の学部に推薦で進学する予定でしたが、とある手違いでそれがなくなってしまい、自分では不本意ながら、鍼灸の大学に進学することになったのです。

そういう経緯で入学しましたので、あまり真面目には勉強することもなく、初めての一人暮らしで、ファミコンというモノを手に入れ、誰にも咎められることなく遊び散らかした私は、大学入学一年目にして、4年間で卒業する権利と視力を失いました。

2年間一人暮らしをしましたが、結局実家に戻され、そこから残りの3年間、片道3時間半をかけて通学しました。冬は、日の出前に家を出、日没後に帰宅しますので、太陽の日が差している奈良を見ることなく過ごしました。

その後は、可もなく不可もなく過ごし、はり師免許、きゅう師免許を取得し、大学を卒業しました。

大学卒業後は、柔道整復師の免許を取るために、専門学校に進学しました。研究機関としての意味合いが大きい大学とは違い、ほとんどの生徒が仕事をしながら学びに来ていたので、職と直結している感じで、専門学校時代はそこそこ勉強もし、無事に柔道整復師の国家試験にも合格しました。

この間、整骨院、整形外科、内科クリニック等で働かせてもらいながら勉強し、専門学校卒業後、大阪市内で整骨院の分院長を経て、平成9年に地元橿原市に戻り鍼灸整骨院を開院することができました。

開院後も、新しいものを取り入れようと、いろいろな勉強会に参加してきましたが、その中で『カイロプラクティック』というものに出会いました。

すっかりカイロプラクティックの魅力に取りつかれた私は、自己治癒力を引き出す治療法の研究を続けてきました。ようやくその頃から、本当の意味で、自分は治療家だと思えるようになりました。恥ずかしながら、ごくごく最近のことです。

高校3年時の手違いがなければ、この業界に入っていなっかたかも知れませんが、胸を張って天職だと言える今では、その手違いに感謝しています。実際、そう思えるようになるまでは本当に長かったです。

これからも、関わるすべての患者さんに還元できるよう、まだまだ勉強の日々です。

治療家になるまで

『人に携わる仕事がしたい』

とても漠然としたものから私の治療家としての道がスタートしました。

小さい頃から家族で旅行や登山に行ったり、友人や地元の先輩方と遊んだり、とにかく一人で過ごす時間より「誰かと」何かをするということがとても多かった記憶があります。

進路選択の際、細かい作業が好きだったこともあり工業系の大学進学も検討しました。しかし「人に携わる仕事がしたい」という思いは強く、父親も歯科医師でしたので同じ道を進む事にしました。

ただ、受験に失敗し進路に悩んだ私に父親から、同じ道に進む必要はないと言われました。そして人に携わり、手の器用さを必要とする鍼灸師という道を勧められました。志半ばで他の道に進むというのはとても悔しい思いでした。

大学に進学してからは富山から大阪に出てきて一人暮らし。とにかく遊びました・・・。都会は田舎育ちの私には眩しく感じられました。

二十歳を過ぎてモヤモヤとした毎日を過ごす中で本当にこのままでいいのかと思い、もう一度、勉強し直して以前目指した大学への編入も考えました。その事を父に相談した際に言われた言葉は今でも忘れません。

『同じ事をしても君は一番になれない。君は自分の道で一番になりなさい』

今でもこの言葉は私の宝物です。今思えば、この時が自分にとってのスタートだったように思います。その後は鍼灸大学を卒業し、専門学校で柔道整復師の資格も取得しました。

大学の在学中に整骨院や整形外科で働かせていただき、卒業後は整骨院での分院長を経験させていただきました。その中で多くの方に出会い、多くの学びをいただき今の私があります。私にとって患者さんの笑顔や繋がりがこの職を続ける糧となっています。

これからも『人と携わる』この言葉にそぐわないよう、日々精進していきます。

奈良の整体・骨盤矯正ならからだの調律@橿原本院